
清水哲さんの野球事故から現在までの壮絶人生をまとめてみました。
清水哲さんはPL学園の野球部出身で、桑田真澄さんや清原和博さんの1学年先輩。
(桑田真澄さんはテレビ番組「消えた天才」で清水哲さんを紹介しています)
清水哲さんは子供の頃から野球を始め、PL学園時代は甲子園に出場し大活躍していました。
しかし、現在は野球の事故で首から下は動かすことができず車いすの生活をしています。
清水哲さんの野球の事故原因は何だったのでしょうか。
また、清水哲さんは野球の事故で体が一生動かないと知った時に「結婚はしない」と決意したのだそう。
結婚しないと決めた理由は「結婚した嫁に介護で迷惑をかけるから」でした。
しかし、清水哲さんは現在結婚しています。
清水哲さんが結婚した理由は何だったのでしょうか?
こちらでは、清水哲さんの野球の事故原因や病名、そして結婚した嫁と清水哲さんの馴れ初め。
そのほか、清水哲さんの現在についてお伝えします。
まずは清水哲さんのプロフィールから紹介しますね。
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清水哲の事故原因はPL学園卒業後の大学野球で車いすの壮絶人生に!現在の嫁との出会いは事故後だった!
PLの先輩・清水哲氏が語る 清原容疑者は「気の弱い男」 https://t.co/E6sPqYR21E pic.twitter.com/Iekchmdguh
— スポーツ報知 (@SportsHochi) 2016年3月1日
清水哲のプロフィール
名前 清水哲(しみず・てつ)
生年月日 1966年4月9日
出身 大阪府守口市
小学校 守口市立八曇小学校
中学校 守口市立八曇中学校
高校 私立PL学園高等学校
大学 同志社大学文学部(中退)
現在は特定非営利活動法人 ベースボール 理事長
清水哲さんは子供の頃にプロ野球の影響を受け、プロ野球選手になるのが夢となりました。
野球チームに所属していた清水哲さんでしたが、まだ子供だったので野球の練習にすぐ飽きてしまったのだとか。
そんな清水哲さんの心を動かしたのは、夏の甲子園でPL学園が粘りに粘って優勝したことでした。
清水哲さんはPL学園の試合を見てから、プロの野球選手になるためにもPL学園の野球部員として甲子園に出場したいと考えるようになります。
そして、清水哲さんは子供の時の夢を現実のものとし、PL学園に入学し野球部に入部します。
PL学園で野球部に入部した清水哲さんには忘れられない思い出があると言います。
その思い出とは、高校3年生の時に出場した夏の甲子園の決勝戦でのこと。
PL学園の投手は桑田真澄さん、4番バッターは清原和博さん。
「PL学園 vs 取手二高 9回裏 4対3」で試合はPLが1点負けていました。
その時にバッターに立った清水哲さんは、なんとホームランを打ち同点にしたそうです。
清水哲さんは子供の頃にテレビで見ていた試合と同じように粘りに粘って、ずっと憧れていたPL学園の先輩選手と同じように奇跡を起こしたのです。
その試合は延長戦となりましたが、優勝はできず準優勝となりました。
しかし、子供の頃から憧れていたPL学園で甲子園に出場し、同点ホームランを打ったことは清水哲さんにとって生涯忘れることのない思い出となったそうです。
生涯忘れることのない思い出を作ったPL学園を卒業した清水哲さんは、同志社大学に入学し野球部に入部します。
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清水哲の事故は大学時代で野球の試合中だった!事故原因はヘッドスライディングで病名は?
同志社大学の野球部に入部した1年後、清水哲さんは秋の関西学生リーグの公式戦で試合をしていました。
5回裏、バッターボックスに立っていた清水哲さんはファアボールで1塁に出塁。
そして、ベンチからヒットエンドランのサインが出たように思え、次のバッターが打つと信じて2塁に向かいましが、バッターは打たず見送り。
そのバッターに「なぜ打たない?」と疑問を感じた清水哲さんは、ヘッドスライディングするタイミングが遅れてしまったため、ショートの選手がセカンドに入ってきて衝突。
それでも清水哲さんはベースにタッチするために目を開けようとした瞬間、今までに経験のない激痛が首にあり、自分で自分の体を1ミリも動かすことができなかったのだとか。
清水哲さんは救急車で病院に運ばれ、医師から首の骨が折れていると告げられます。
救急車で運ばれた病院では治療ができず、清水哲さんは大きな病院に移り8日後に手術をすることになりました。
手術は無事に終わり成功したのですが、2ケ月以上経っても清水哲さんの体は全く動きません。
事故当時、清水哲さんは骨が元に戻れば事故前と同じような生活ができると信じていたのですが、2ケ月以上たっても体が全く動かないので看護師に「いつになったら治る?」と聞いてみました。
しかし、看護師は「本当のことを知りたければ主治医に聞いて」と答えます。
その言葉に不安を感じながらも、清水哲さんは長くても5~6年で治ると予想し、どんなに悪くても二度と歩けないとは考えてもみませんでした。
しかし、医師から告げられたのは「今の医学ては治すことできない。一生寝たきりになる。」という残酷な言葉でした。
清水哲さんの病名は事故で首の第4・5頚椎脱臼骨折し、脊髄損傷していたのです。
脊髄が損傷すると損傷部より下に麻痺が残り、損傷部位が頭部に近いほど障害が重くなります。
清水哲さんは首でしたので首から下が麻痺してしまったのです。
清水哲さんが一生体を動かすことができないと知ったのは、まだ19歳の時でした。
全てを知った清水哲さんは「生きることは苦しむことだ」と人生を悲観するようになり自殺も考えたそうです。
しかし、体が麻痺しているので自分ではどうすることもできず、清水哲さんに許されたのは泣くことだけでした。
清水哲さんは人に見られないように毎日夜中に泣いていたそうです。
そんな清水哲さんを支えていたのは、友人のお見舞いやファンからの手紙、そして病院のスタッフだったそうです。
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清水哲に事故後勇気をあたえたのは病院で出会った少女!
清水哲さんは事故から9ケ月後にリハビリの病院に移ることになります。
清水哲さんはリハビリをするのなら自分にとって最高の病院にしようと脊髄損傷病棟がある病院を選びました。
しかし病院の医師からは、「リハビリにも限界があるので元には戻らない」と残酷な現実を告げられます。
それでも清水哲さんは「甲子園の時のように奇跡を起こす」と信じて懸命にリハビリを続けます。
そんな清水哲さんをみて「何でそんなに頑張るの?」の聞く人もいたそうです。
自分には奇跡が起きると信じて暫くリハビリを続けていたのですが、リハビリの成果があらわれず、「やっぱり元には戻らないのか」と諦めかけていた頃、清水哲さんさは病院で1人の少女に出会います。
その少女は交通事故に遭い3歳で首の骨を折ってしまったため、清水哲さんと同じリハビリのメニューをしていたのだそう。
しかし、その少女は嫌々リハビリをするのではなく、歌を歌いながら楽しそうにリハビリしていたのだとか。
その少女の様子を見て、勇気づけられた清水哲さんはダメでもともとだと考えるようになり、リハビリを続けた結果、なんと右手が少し動くようになったのだそう。
しかし、清水哲さんは完治することはなく、1年2ケ月後に病院を退院することになります。
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清水哲の父親が病気で倒れ車いすで1人暮らし生活に!壮絶人生から現在の嫁と結婚するまで!
清水哲さんが退院したあとの選択肢は2つのみ。
1つは自宅療養、もう1つは施設に入所すること。
清水哲さんは両親には申し訳ないと思いながらも自宅療養を選びました。
しかし、8年後に清水哲さんの父親が脳梗塞で倒れ、母親は父親の面倒で精一杯となってしまいます。
そのため清水哲さんは病院を転々としながら1人暮らしの準備を進め、1年6ケ月後に大阪で福祉が良いと評判だった枚方市で社会資源のサービス(ホームヘルパー、ガイドヘルパー、訪問介護、入浴サービス)を利用して、1人暮らしを開始しました。
1人暮らしから3年後、介護がきっかけで現在の嫁と知り合うことになります。
清水哲の現在の嫁との出会い!結婚を決めた理由は?
清水哲さんが1人暮らしを始めて3年ほどの月日が経った頃、現在の嫁と知りあうことになります。
清水哲さんは体が不自由ですのでホームヘルバーやガイドヘルパーをお願いしていました。
ホームヘルバーで来てくれるのは、清水哲さんの母親に近い年齢の人が多かったそうですが、清水哲さん曰く現在の嫁は比較的若かったとのこと。
その頃、外出する時に手伝ってもらうガイドヘルパーも探しており、現在の嫁の都合と清水哲さんの都合があい、ガイドヘルパーも現在の嫁に頼むようになったことで一緒にいる時間が長くなり、お互いに惹かれ合うようになったようです。
ですが、清水哲さんは生涯体が動かせないと知った時に結婚はしないと決めていたのだそう。
結婚しないと決めた理由は、自分と結婚すれば介護漬けの生活になるからとのこと。
そんな清水哲さんの決意を変えたきっかは、障害者の友人から障害者が結婚することは非常に難しいと聞いたことだったそう。
そこで清水哲さんは清水哲さん自身が結婚して、障害者でも問題なく結婚できると世間に知らせたかったのだとか。
そして、ホームヘルパーとして知り合った現在の嫁に惹かれ、母親に「結婚しようと思う」と伝えると、母親からは「障害者が結婚してどうするの?」と返事が返ってきたのだとか。
母親は清水哲さんや夫の介護をしてきていたので、介護が必要な息子の嫁になる人はいないと考えてたようです。
母親は息子が傷つく可能性があると察して結婚に反対したのかもしれませんね。
しかし、納得がいかなかった清水哲さんは、現在の嫁である由美子さんと2000年3月に結婚しました。
現在の嫁と結婚した清水哲さんは、1人で全てを決めて暮らしていた頃よりも今のほうが自分の人生をしっかり生きていると感じているのだそう。
ところで、清水哲さんは現在どのような活動をしているのでしょうか?
清水哲さんの現在が気になり調べてみました。
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清水哲の現在は講演&監督&本を出版し活躍中!
清水哲さんの現在は、講演、野球の監督、本の執筆、NPO法人で介護サービス事業を手掛けるなど幅広く活躍されています。
講演のテーマには「生きる勇気をありがとう」「命の大切さ」「障害者から見た現在の福祉」などがあり、清水哲さんは現在までに45都道府県で講演してきたそうです。
体が不自由であるため、長時間の講演は体が辛くなることもあるそうですが、清水哲さんにとっての講演は生き甲斐で、残された機能を活かすことにもなるのだとか。
辛い経験を体験をし、どん底から這い上がってきた清水哲さんの講演は心に響くものがありそうです。
⚾️2月15日に、清水哲氏の《生きる勇気をありがとう。》の講演会がありました。
とても素敵な講演会でした✨
講演会の話を聞いて、心に残ったものがあったと思います。それをこれか生かして頑張っていきましょう😊#北豊中友好会 pic.twitter.com/fFWQCCW1Tp— 北豊中友好会 (@kitatoyoyukokai) 2018年2月17日
また、清水哲さんは辛い経験を乗り越えた後に本を2冊執筆しています。
1つめの本は、1994年に出版された「桑田よ清原よ生きる勇気をありがとう」
2つめの本は、2009年に出版された「車いすの不死鳥ー絶望の淵から夢を追って」
初めて出版した「桑田よ清原よ生きる勇気をありがとう」は、口にペンを加え9年かけて書き上げたそうです。
どちらも辛い経験から這い上がってきた清水哲さんでなければ書けなかった内容となっています。
挫折しそうなとき、壁を乗り越えようとしている時に読めば、立ち向かう勇気が湧いてくるかもしれませんね。
そのほか、清水哲さんは大好きだった野球にも監督として関わるようになっています。
近年では、マスターズ甲子園出場を狙うPL学園OBの野球チームの監督もしているようです。
「逆転のPL」健在!マスターズ甲子園目指すPL学園OBが練習試合、清水哲氏が監督 https://t.co/Qn1KsIgzr2 pic.twitter.com/GfxS2MVoCK
— 高校野球ニュース (@Kokoyakyu_News) 2019年3月2日
どうやら、清水哲さんは父親が監督をし、清水哲さん自身が子供の頃に所属していた野球チーム「守口セネターズ」の監督もしているようです。
清水哲さんの父親は清水哲さんの体が不自由になった後に監督を辞め、脳梗塞を患った17年後に癌で亡くなっているのですが、清水哲さんが守口セネターズの監督になったと知った時はとても喜んだのだそう。
清水哲さんは子供たちにジェスチャーで野球を教えることはできませんが、子供たちが本当の力を身につけられるように言葉でヒントをあたえて子供たちに考えさせているそうです。
また、清水哲さんは特定非営利活動法人 ホームベースの理事として介護サービスにも関わり、障害のある人が少しでも生活しやすくなるよう努力を続けています。
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清水哲の事故原因はPL学園卒業後で病名は?現在の嫁と結婚までの壮絶人生!で最後に一言
清水哲さんは野球の試合中の事故で体が不自由になってしまったことから、「野球は嫌いになったか?」「野球は怖い?」と聞かれることがあるそうです。
私なら野球のことは二度と考えたくないと思うのですが、不死鳥の清水哲さんは違いました。
清水哲さんは野球で体の自由を失いましたが、清水哲さんを救ってくれたのも野球だったとのこと。
清水哲さんの体が不自由になったあとは、PL学園の同級生が中心となった「哲和会」が結成され、昔の野球仲間たちが助け応援してくれているそうです。
そして、野球でケガをしていなかったら、講演や本を書くこともなかったとのこと。
清水哲さんは野球でケガをしたからこそ、その体験を聞くために講演依頼があるのだと野球に感謝しているのだとか。
どん底を味わった清水哲さんは苦しくて辛い状況でも生きる価値はあり、この先も人生を生きていくなら楽しい人生を送ろうと決め、人生の逆転ホームランを打つことを目標にしているのだそう。
どんな時にでも感謝の気持ちを忘れず、前向きに生きようとする清水哲さん。
そんな清水哲さんだからこそ、講演依頼があり、仲間たちが清水哲さんのために「哲和会」を結成し、清水哲さんを応援しているのだと感じています。
私も人生で小さなヒットくらいは打てるような人間になりたいと心から思いました。
以上が清水哲さんの事故原因や結婚について調べた結果です。
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